「無力感を引き裂く主イエス」  03−04−20
                 マタイ28:1〜10

 イースターの朝、婦人たちが、主イエスの亡骸の納められた墓に
向かっていました。その墓は、自分の無力さを確認する場所でした。
大切な主が十字架にかかり、死なれるのを見ながら、どうする事も
出来なかったことを思い知らされる場所です。婦人たちは、泣き、
(あきら)めるしか出来ない場所に向かっていたのです。
 ところがその墓は、空っぽになっていました。
収められていたはずの主イエスの亡骸は、なくなっていました。
主イエスが、復活されたからでした。

 イースターの日、自分の罪、無力さ、情けなさを担って死なれた方が
墓からいなくなってしまわれた。自分の罪を表す亡骸は、もうなくなって
いる。そこに希望と喜びがあります。罪の赦しがあります。

 私たちは、主が自分の罪を全部担って十字架にかかって死んで
くださったと信じています。ですから、主の亡骸
(なきがら)は、主に
死んで頂かなくてはならなかった私たちの罪と背きを表すものでした。
 ところが、「あなた方の罪のために十字架にかかって死んだ
主イエスはもうおられない。ほら見なさい。罪を表すものは、
もうないでしょう」と天使は、告げてくれたのです。

 教会で掲げる十字架には、主イエスの姿があるものもあります。
 しかし、私たちの教会の十字架には主イエスの姿はないのです。
自分の罪ゆえに死なれた方を見つづけて生きるのではなく、
復活された主イエスを見ながら、罪の赦しを確信しながら生きる
からです。

 墓にとどまらなくて良いことを知った婦人たちは、墓から立ち去り
ます。すると、行く手に主がおられ、二人を迎え入れ「おはよう(喜べ
との意味もある言葉)」と語りかけてくださいました。「罪も汚れも
取り除いた。だから、喜べ。小ささや無力感に縛られるのでなく、
罪を取り除かれた者として喜べ。」
 イースターには、このように
語ってくださる主と出会うのです。
教会の玄関のステンドグラスに
描かれているように、手を広げる主に赦しを宣言していただいて、
この世に派遣されていく。それが復活の主と私たちの関係です。